これは、「いいことをしています」という話ではありません。

むしろ、そう見られるのが少し苦手です。

僕がボランティアに関わるようになったきっかけは、自分から進んで選んだものではありませんでした。

昔、僕に相場を教えてくれた先生がいました。その先生が出した条件のようなものがあって、半ば強制的に始めた。正直に言えば、最初は渋々でした。

面倒だと思ったこともあります。立派な動機があったわけでもありません。

与えに行っているわけではない

活動の半分くらいは、子どもたちに関わることです。それ以外にも、いろいろな地方に足を運ぶことがあります。

ただ、続けているうちに少しずつ見方が変わってきました。

僕は誰かに「与えに行っている」わけではない。人や社会との関わりの中で、むしろ自分が学ばされている。

そう感じるようになりました。

古い付き合いのメンバーと会えば、オフ会のような感覚もあります。知らない土地へ行くのは、半分旅行のような楽しさもあります。

僕は料理をするので、地方に行ったときに地元の人から魚や野菜の話を聞くのも好きです。

「この魚はこの時期がうまい」とか、「この野菜はここの水だから味が違う」とか、そういう自慢話を聞くのは、どこへ行っても楽しい。

一度始まると、だいたい長いのですが。

でも、その長さも含めて好きです。その土地の人が、自分たちの土地のものを誇らしそうに話す。そこには、観光ガイドには載らない社会の温度があります。

だから今でも、立派な動機があるとは思っていません。ただ、人や社会と関わることが、自分にとって必要な一部になっているのだと思います。

振り出しに戻った福祉事業

最近、印象に残っていることがあります。

ある地方で物件を買い取り、そこを使って福祉の事業を始める予定がありました。この7月から動き出すつもりでした。

でも、その計画では全国からそれなりの人数をその土地に集めることになります。結果的に、地域の理解を得ることができませんでした。

よそ者を大勢受け入れることへの抵抗。それは当然のことだと思います。

こちらに目的があっても、そこにはもともと暮らしている人たちがいる。地域には地域の空気があり、事情があります。

結局、計画は中止。振り出しに戻りました。

おかげで、すっかり暇になってしまいました。

でも、不思議と悪い気はしていません。こういうことは、過去にも何度もありました。

思った通りに進まない。理解されない。計画が止まる。

そのたびに、何かを学んできました。

今回も、たぶんまたどこかへ導かれて、何かにつながっていく。そう思っています。

本質的に正しいか

人のために何かをするとき、僕が気にしていることはひとつです。

本質的に正しいか。

善意があるかどうかではありません。いいことに見えるかどうかでもありません。

本当に必要とされているのか。その場所に合っているのか。押し付けになっていないか。

人にも、社会にも、市場があります。

相場と同じです。自分が「こうしたい」と思っても、そこに需要がなければ成立しない。自分では正しいつもりでも、相手や場所にとっては違うことがあります。

たとえば、こちらがどれだけ良い靴だと思って差し出しても、相手の足に合わなければ痛いだけです。食べ物でも同じで、どれだけ良い食材でも、その人が今ほしいもの、その土地で受け入れられる形でなければ、ただ重くなることがあります。

やさしさや善意も、見極めを間違えると押し付けになります。良いものを持っていくことより、相手や場所に合っているかを見ることの方が大事な場面があります。

だから僕は、ボランティアや奉仕活動を「いい人」「悪い人」、「いい行い」「悪い行い」のように見られるのが苦手です。

与える、受け取る、という感覚でもありません。そこにあるのは、経験と学びだと思っています。

先生から教わったことの続きをしている

社会に恩返しがしたい、という感覚も正直あまりありません。僕は善人でもないし、神様でもありません。

ただ、映画『ベストキッド』が好きです。

自分が誰かから教わったことを、別の誰かに渡していく。その人が成長して、いいトレーダーになったら面白い。

料理で言えば、レシピをそのまま渡すというより、火加減の見方を教わった感覚に近いです。材料が変わっても、鍋が変わっても、火の入り方を見る目があれば応用できる。相場もたぶん同じで、手法そのものより、見方を渡してもらった感覚があります。

僕と先生も、そういう関係でした。

だから、自分が興味を持てる人や場所で、その続きをやっているだけなのかもしれません。

学ぶという経験そのもの

教育は大事だと思っています。

でも、何を学ぶか以上に、学ぶという経験そのものが大事だと思っています。

学ぶという行為の中には、成功も失敗もあります。挑戦も挫折もあります。できなかった悔しさも、少し分かったときの嬉しさもあります。

そういう経験をたくさんしている人ほど、次に何かを学ぶときの吸収力が高くなる。

スポンジみたいなものだと思います。乾ききって硬いままだと水を弾くけれど、一度水を含んだスポンジは次の水を吸いやすい。学ぶ経験がある人ほど、新しい知識も、人の言葉も、自分の中に入りやすくなる。

勉強は、知識を増やすためだけのものではありません。「学ぶとは何か」を知るためのものでもあると思います。

人を学ぶことも、社会を学ぶことも、相場を学ぶことも、たぶん同じです。

決めつけずに観る。良し悪しで急いで判断しない。分かった気にならない。ずっと学ぶ側でいる。

僕なりのボランティアのススメ

ボランティアを強くすすめたいわけではありません。

ただ、もし機会があるなら、一度くらい関わってみてもいいと思います。

善人になるためではなく、人を知るために。社会を見に行くために。自分がそこで何を感じるのかを知るために。

地図を眺めているだけでは、坂のきつさや、風の匂いや、店の人の話し方までは分かりません。一度その場所に立つと、情報ではなく体験として残る。ボランティアも、僕にとってはそれに近いです。

思ったより、自分の方が学ばされることがあります。

うまくいかなかった経験ほど、よく学べる。相場でも、人でも、社会でも。

僕なりのボランティアのススメがあるとしたら、そのくらいの話です。

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